発達障害(自閉症スペクトラム、ADHD)がある次男は、3歳の頃から幼稚園に通いました。加配(発達特性があり配慮が必要な子どもが集団生活に参加することをサポートする体制)の先生をお願いしていましたがそれは叶わず、担任や周りの先生に見守られながら生活してきました。
年少の頃の運動会が終わってから、次男から急な心の変化(成長)が生まれました。
今回は、次男の心の変化や成長、それに伴う対応と、集団保育の中で感じたメリットをお伝えしてきます。
白黒思考(勝ち負けへのこだわり)
次男は、年少の運動会を終えてから、「負けたくない」「勝ちたい」「一番になりたい」という悔しい気持ちが芽生えました。
自閉症スペクトラムの特性のひとつに、白黒思考(白か黒かのように極端な発想や考え方)があり、「勝つか負けるか」「勝つことか一番えらい」というような、1番へのこだわりがあります。
一見、とても大切な感情のように思えますが、本人も制御できないくらいに日常生活を送るうえでの”障害”となりました。
勝つこと以外は受け入れられないので、負けたときはこの世の終わりかのように激しく泣き暴れることが続きました。
朝から晩まで、長男と些細な日常生活で競い合います。長男より先に起きて階段を降りる、先に着替える、先に公文する、先にいただきます・ご馳走様を言う、先に歯ブラシする、先に着替える、先に靴を履き外に出る、外出先では先頭を歩く、先に虫を捕まえるなど、あらゆることに対して先にすることへのこだわりも強くなりました。長男が次男より少しでも早く先にすると、泣いて怒る、暴れる、暴言を吐くようになりました。
その度に次男の気持ちに共感したり状況を伝えたりしましたが、理解されることもなく、毎回癇癪へ繋がる様々な地雷は、私にとっても、長男にとっても相当なストレスとなりました。
そんな次男に対して、療育関係や主治医、幼稚園の担任に相談しながら進めてきたことがあります。
関係機関と共に伝え続けてきたこと
白黒思考があり、勝ち負けにこだわる生活で障害を生じた次男に対して、各関係機関と連携し伝え続けてきたことは主に3つあります。
結果で判断せずに、「過程」をほめる
順位や速さだけで物事の良し悪しを決めるのではなく、過程に注目して話すように心がけます。
”1番”以外の選択肢をカード等にして事前に見せて意識させたり、自分で「今日の1番は何にするか」を選んでもらいます。1番以外、速さ以外の過程の1番(ハナマル💮)に意識を向けるように声をかけるよう普段から心掛けました。
物事の概念を伝える
そのぞれの行動や物事に対して、過剰に1番へこだわりを見せてしまうことに、こちらは困ってしまいます。そのときは、物事の概念を伝えることをオススメします。
例えば、運動会の季節でしたら、「”かけっこ”は、スタートからゴールまで諦めずに走る競技だよ」「最後まで走り切ることが大事」「最後まで走るのがかっこいい姿だよ」と、競技の説明や1番になること以外の価値観を伝えます。
1番になれなかったときは
負けたとき、1番になれなかったときは、
- 本人の悔しい気持ちに共感する
- 結果ではなく過程をほめる、意識させる
- 「そんなときもあるよね」「大丈夫だよ」「次にまたチャレンジしようね」
思い通りにいかないことは、生きていてたくさんありますよね。白黒思考になってしまったときのおまじない、我が家では「そんなこともあるよね」と言って過ごしています。
周りへのプラスな影響
幼稚園では担任だけでなく、他の先生にも上記の3つを共有してもらいました。本人が1番になれず怒ってしまったときは、他の先生にも対応してもらいました。
ともに伝え続けてきたことで、様々な人へプラスな影響がありました。それは、クラス全体に波及していきました。
先生方が発する次男への声掛けを、間近で見ながら過ごしてきた周りの友達は、次男に対してとても優しいのです。
次男が困っていたり、泣いたり、怒ってパニックになるたびに、担任から「次男くんは今こう思っていて泣いているんだよ」「次男くんはこういう理由で悲しい気持ちになったんだよ」「次男くんは考えるのに少し時間がかかるから、今はソッとしてあげようね」「次男くんにはこういうときは、こう伝えてあげてね」など、クラス全体に説明してくれていました。
子ども達は素直だから、「何この変わった人?!」「変な奴だな」というような目で見ません。
ありのままの次男を受け入れて、困っていたら助けてくれて、悲しんでいたら手を差し伸べ、励ましてくれます。そして、次男の得意なことや上手にできたことは、みんなで喜びほめてくれるのです。その姿は、親や先生にも眩しく映りました。子ども達の関わりは、次男と対等な関係であると感じています。
寄り添い上手で理解あるお友達に囲まれ、ありのままの次男を受け入れてもらいながら生活しているので、とても心穏やかに過ごせていると思っています。
関係機関と共有することで繋がった成長
このように関係機関と共有し声掛けを続ける中、周りの友達がありのままの次男を受け止め、理解し励ましてくれたことで、本人の大きな成長がありました。
それは、年長の運動会練習中のこと。
練習が始まったころは、負けたら相手チームに暴言を放っていた次男ですが、先生方やお友達が根気よく声掛けしてくれたこともあり、今まででは信じられないような言葉が本人の口から出たのです。それは、
「リレーは負けたけど、僕は頑張った」
「負けてもいいの、頑張れば」
という言葉を、担任に話したのです。
過去を振り返ると全く想像できないような出来事でした。
担任や周りの先生方の寄り添う声掛け、そしていつも否定せずに優しく見守ってくれる友達がいたから、次男はここまで成長できたと思っています。
でも、ちょっと待って。
次男の成長の裏には、何が隠れているのか…
それは、次男がもたらした友達の成長です。
インクルーシブ教育がもたらすメリット
よくよく考えますと、次男がクラスで一緒に生活することで、周りの友達にとってもいいことがたくさんあります。
世の中にはいろんな人がいて、次男のように発達障害があり、話すことや気持ちの切り替えが苦手、注意を正しく向けられなくて説明を理解しにくい、勝ち負けにこだわるなどの特性を持った友達もいることを、何の偏見もなく理解できるチャンスでもあるのです。
次男がいることで、特性や困りごとがある子への理解が広まり、フラットな関係で励ましたり見守ったりすることを自然にするようになった友達がたくさんいると思います。
インクルーシブ教育の効果って、これではないでしょうか。
インクルーシブ教育とは、障害のある者とない者が共に学ぶ仕組み。障害のある者が、教育制度一般から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な「合理的配慮」が提供される等が必要とされている。
(文部科学省『共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)概要』参照)
本人が集団生活を送る上で大切なのは、可能な範囲で”合理的配慮”をしてもらい、過ごしやすい環境を整えてもらうことです。
環境を整えるとは、物理的なことだけではなく、周りの人々の理解も含まれると考えます。
合理的配慮とは、障害のある方の人権が障害のない方と同じように保障されるとともに、教育や就業、その他社会生活において平等に参加できるよう、それぞれの障害特性や困りごとに合わせておこなわれる配慮のこと。
次男は障害のない子と共に生活をしながら、幼稚園側に”合理的配慮”をしてもらい、次男にとっても友達にとっても理解や気付きに繋がる集団生活を送れています。
どちらかに偏ることも、不平等もなく、公平に、対等に生活し、お互いを理解していくこと。これが、インクルーシブ教育の醍醐味なのではないでしょうか。
みんな一緒が良いわけではない。世の中にはいろんな人がいて、得意不得意、苦手を抱えているけれど、環境を整え適切な声掛けや配慮があったら、一緒に過ごしやすくなるよね。
みんなそれぞれ得意や苦手があるけど、その凹凸をお互い理解し合い、補い合っていけたらいいよね。
こんなことを、自然と学べるということが、インクルーシブ教育のメリットだと私は思います。
みなさんは、どう思われますか?
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